年末の新島旅行、4日目、最終日、大晦日。
タクシーの運転手さんとか浜辺や道端でほんの少しだけど会話を交わした島の人たちが一様に「いつまでいるの? え、31日まで? 元日にはみんな浜辺に集まって、甘酒とかが振舞われるのに~」と仰っていた。知らなかったよ。。残念。
荷物をざっとまとめて宿の食堂に行き、朝食を食べながらさて船が出る11時過ぎまでどうしようかな。。また間々下海岸の先までひとりで散歩してこようかな。。と考えていると、食堂の方が「今日も海が荒れるから朝の船に乗った方がいいって放送で言っていたよ」と教えてくれる。
「朝の船?」「そう、8時15分に出る船」「風、強いんですか?」「風はそうでもないけど、うねりがね。朝の便も羽伏浦港に着くんだって」げげ。宿から歩いて10分ほどの黒根港じゃないんだ。。
「朝は港に入るけど、昼の便がどうなるかは分からないみたいだよ。まぁ、フロントに行って聞いてごらん」「はぁ、そうします」
て、もう8時なんですけど。。あと15分。
慌ててフロントの方に「朝の船に乗った方が良いということなんですが」と尋ねると、「荷物、まとまってますか?」との返事。「あ、大丈夫です。すぐ出発できます」と、バタバタと8時5分に宿を出て、宿の送迎車に乗る。出発。あと10分。
「車なら早いですよね。ぎりぎり間に合いそうですね」と車のハンドルを握る宿の方に話しかけると「そうですね。でも羽伏浦港は若郷の手前だから…」と言いながら、スピードを上げてかっ飛ばしてくれる。宿の人がぽつりと「あぁ、向こうからタクシーが来たということは、もう港に船が着いていますね」と言う。「あ、ほんとだ。続々来ますね…でもまだ15分じゃないから船は出ませんよね」「そうですね。おそらくすぐには出ないと思いますが…」
8時15分ほぼジャストに港に到着。大急ぎでザックを引っつかみ走り出す。埠頭の角を曲がるとまだ船は港にいた。でも、既にタラップは取り外され、今まさに出港しようとしているところ。
「すみません、乗せてください! 」 とその辺に立っていた係りと思しき人に詰め寄る。「昼の便がわからないので、朝の便に乗ったほうがいいと聞いたので」
今まさに船が出るってときにまったくもう面倒臭いなぁ。。という表情が港の人たちにちらりと浮かぶ。どど、どうしよう。。
船のデッキにいる船客さんたちから「跳べ、跳べ」コール。跳んで飛び乗れ、と。「いや、すみません、ちょっと跳べません。乗せてください~」(汗)。
ま、仕方ねぇか…という雰囲気が流れ、せっかく脇に寄せたタラップを再度船に掛けてもらい(すみません)、なんとか無事に乗船できました。ありがとうございました。なぜかデッキのお客様たちから拍手までいただきました。ありがとうございます。
ふーやれやれ。と深呼吸をしていると、「え~、本船は新島を出ました後、式根島を経由して神津島に向かいます」とのアナウンス。
え? 自分は東京に帰るんですが? 式根島? 神津島?
実はこのときまでまったく理解していなかったのだけど、どうやら朝の便というのは往路で、新島を出た後式根島、神津島に向かい、復路の船が本来自分たちが乗船する昼の便と呼ばれるものだと理解。
ということは、東京湾到着が早まるということもなく、このまま19時まで都合11時間、約半日船中の人。。まぁ船旅は好きだけど。。
港を離れると、船は羽伏浦沿いに南下。目の前に白ママ断層崖。海から眺めることができてちょっとラッキーだったかも。
ざっくりと切り立った白い断崖の上、神様がいるという森の緑に包まれた緩やかな台地に、無人灯台とミサイル試射場がある。
なんでも年間10発くらい、海に浮かべた無人標的(ブイ)を目標として発射訓練をしているらしい。
いつの日かどこからかやってくるかもしれない脅威を想定しながら、海に向かってぽんとミサイルを撃つ。リアルでシルトの岸辺みたいだ。
(村との公約に、実験は年間20日以上は実施しないという条項があるという。また、施設の設立当初は、宇宙開発推進本部(後の宇宙開発事業団、現JAXA)がここでロケット打ち上げ試験を行っていたそうな)
20年前のガイドブックには「試射場は見学可。ただし要事前予約」とあるけれど、今はどうなんだろ。
宿に置いてあった島の歴史の本は、以前新島の小学校に勤務されていた校長先生が編纂されたものだった。
この本は神話の時代から始まる。伊豆諸島は事代主命によって造られた。事代主命はなんでもはるばる天竺から日本にやってきてどこかよい土地はないかと探していた。この国にはすでにさまざまな神様がいるけれど、ちょうど良さそうな場所があるのでどうだろう、ということで伊豆半島沖に伊豆の島々をお造りになられた。んで、妃や子供たちを各島の護りとして置いたとか、そんな感じ。記憶がちょっとおぼろげだけど。
大国主の国造りの神話のコンパクト版として考え出されたのではないか、という考察が示されていたような気がする。
そんな神話の時代から始まる歴史の本の後半に、ちらりと記された一節。
なんでも明治時代かその後か、若郷村の村長さんが手狭な若郷の渡浮根港を拡張すべく、港周辺の岩山をダイナマイトで発破して港に沈めるという一大工事を行ったらしい。でも、この工事の結果は裏目に出て、巨大な岩がごろごろ港に溜まってしまい波が高いときには浜辺に打ち上げられたりと、ぶっちゃけ失敗に終わったそうな。
で、少しばかり時が流れ、昭和となり、この若郷の港に沈んだ岩石を撤去し港湾を整備することと引き換えに、新島にミサイル試射場が建設されることになった。
まぁ、そんな感じの簡潔な内容だった。直前まで村の風物や風習に関する内容が続いていたので、ちょっと唐突な気がして印象的だった。
家に帰ってからこのミサイル試射場のことを検索したら、ぞろぞろと情報が出てきてびっくり。
1958年、防衛庁が新島南端の土地を買収。ミサイル試射場設置のことを朝日新聞の記事で初めて知ったという島民は驚き、防衛庁(現防衛省)に説明会開催を求めるも役所側の反応は薄く、その間に総評、社会党、共産党などが組織する反対派がオルグ団を結成し島に上陸。反対派の団体に属する軍事評論家が「実験場が出来たらソ連が新島を原爆攻撃する」という演説を行ったとか。今となっては笑い話みたいな感じがするけど、当時の人たちはかなり本気だったんだろう。
そんな1963年の「新島ミサイル闘争」は新聞紙面を賑わし、賛成派と反対派とで島を2分する騒動となったとして、昭和史に刻まれているのだそうな。
なんとまぁ、そんなことがあったのですね。知りませんでした。
昔の人って、つくづく血気盛んだよなぁ。。と、学生運動を知らない自分は、ぼんやりと思う。
まぁ、港湾整備や飛行場建設と引き換えにミサイル試射場設置をというお上の決定も狡猾だよなと思うけど、いっそ、反対派の人たちもオルグ団を結成して思想工作とか闘争を決起するのではなく、自衛隊に先駆けて港に埋まった岩石をみんなで除去する作業をすればよかったんでねーの?
また、ミサイル闘争に携わった内田宜人氏が実に感傷に満ちた電波度の高いエッセイの中で、第二次世界大戦中新島の人たちが山形に強制疎開したことに触れている。「軍の方針による強制疎開であり、縁故とてあろうはずのない山形県に送り込まれたものであった。」という文章を読んでふ~ん、と思った。
江戸時代の寛文8年(1668年)に新島初の流人として配流されたのは出羽国羽黒山中興の祖とされる別当天宥法印という高僧で、島の子供たちには読み書きを大人には農作物の生産技術などを教え、7年後に入寂するまで島の人に慕われたという。島の人たちは天宥法印のお墓を守ってきた。ずっと長いこと。出羽三山神社の天宥法印の弟子たちは、天宥法印の墓を探し続け、かれこれ270年後に新島にお墓があることを突き止めたという(弟子たちは天宥法印が伊豆大島に遠島になったという判決文に従ってずっと伊豆大島を探していたので、なかなかお墓を見つけられなかったそう。270年というのは曖昧な記憶。違うかも)。そんな繋がりがあって、山形県羽黒町と新島村は現在友好町村関係にあり、交流が深いらしい。
内地に縁故の少ない村の人たちの強制疎開先が山形のテンユウ様の出身の近くというのは、誰が取り計らったのかは知らないけど、偶然としてもよくできた話だなと自分は思う。
戦争や争いごとなんてないほうがいい、断然いい。それに伴う悲劇もないほうがいい。絶対にいい。けどね。でもね。
島と国と世界と、個人の感情と利害と信条と…嘘と毒と憎しみと。
色々考え出すと頭がぐるぐる回リ出す。あんまり考えないほうがいいのかも。
早島の先を越えると島影を出たために海のうねりが強くなり、船がぐらりと揺れだす。
間もなく式根島の野伏港に入港。式根島は過去3回訪れたことがある。小さな島なので、週末にぷらりと訪れるのにお手頃。露天風呂もあるし。浜松町の会社に勤めていたときには、残業して遅くなった金曜日には「今なら船に乗れる!」と思ったことがしばしば。実行はしなかったけど、実際に過去に会社から島旅に直行した人がいるとか。
式根島を離れて、船は往路の最終寄港地となる神津島に向けて出港。
海が荒れているからか、表玄関である神津島港ではなく多幸湾に入港。天上山の真っ白い山肌が目前に迫る。2000年に起きた地震で南西面の山腹が崩壊したそうでいよいよ白い。
天上山の山頂には不入ガ沢(ハイラナイガサワ)という噴火口跡があり、ここは伊豆諸島の神様たちが集まって水配りの相談を行った神聖な場所なので立入り禁止だそうな。
伊豆大島の三原山を御神火と呼ぶように、新島の向山が神ヶ森と呼ばれるように、火山には神様がお住まいです。
神津島の砂糠崎周辺には浪で侵食されてドーム状になった穴があちこちに。う~む、あれはちょっと自分には登れないなぁ。。なんてつらつら考えながら眺める。
船は再び式根島に。
それから新島へ。今度は黒根港に入港。なんだ、宿のすぐ近くじゃないか(笑)。海は朝よりも穏やかになっている。ま、他の島を巡ることができてラッキーだったと思うことにしよう。
新島を離れた時点でも、まだ利島は条件付出航とのこと。現地と連絡を取り合いながら接岸するかどうかを決めます、というアナウンス。
お昼になったので船内の食堂へ。鵜渡根島の脇を過ぎる。赤い岩とこびりつくように生えた植物の緑とのコントラストがきれい。草食系の恐竜みたい。
鵜渡根島の先に特徴的な利島のシルエットが近づいてくる。南からみると周囲は断崖絶壁。もしかしてこれは…と、慌ててお蕎麦を啜ってデッキに出ると、どうやら利島に無事入港する様子。
港にはコンテナを運ぶ車両のほかに、警備のパトカーと郵便局の車が1台ずつ。郵便局の人はデッキから袋を受け取ると早々に車を出して港から去っていった。あぁそうか、明日は元旦だ。年賀状か。朝の便は欠航したけど、昼の便は寄航できて良かったねぇとなんだかしみじみする。
それから船は大島に寄り、一路東京湾へ。富士山の白い頂がいよいよはっきり見える。その南に延びる白い山脈は南アルプス深南部だろか(違うかも)。富士山や伊豆半島の陸地は島からでもはっきりと見えた。その昔、島に流さた流人の人たちは、前浜に降りて富士山を見ては自分の故郷はあっちかと眺めやったんじゃないかなぁと想像してみる。
やがて夕陽が山の端に消えて、しばらくすると海岸沿いに街の灯が点る。浦賀水道に入ると船は12ノットに減速し、同じように減速航行中で漂うようなタンカーや貨物船と行き交う。もう特に見る風景もないので、部屋に篭り到着のときを待つ。
まるはのネオンサインや晴海旅客ターミナルのガラス屋根が見え、あぁ東京に戻ってきたんだなと実感する。まぁ旅先も東京都なんだけどね。
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色々と気になることをメモしたり、グダグダ書いてみたり。山の記録はなるべく参考になりそうなことを…と思いながらも思いついたままに垂れ流し。。
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