国際金融のことはよくわからないのだけれど、なんだかアレコレと騒がしいような。。。
6月に入った途端、すとーんと落っこちた上海株式市場がまたじわりと落ち目基調。その1週間後の6月8日はNZストックのインデックスがすとーんと撃沈し、なんとか勢いを取り戻すも下降線をたどる一方。
アメリカもサブプライム関連の住宅市場の冷え込みで、DOW JONESもNASDAQも全体的に続落。
また、なんでもアメリカがヘッジファンドへの法規制を強める方針を固めているとかで、ハゲタカと呼ばれるHF陣が資金回収にやっきになっているという噂も聞こえてくる。
ローンスター社の件でゴタゴタの韓国はじわりと下降曲線で、バブル崩壊到来の予感がひしひし。もし万が一の場合に、IMFが10年目の「おかわり」を許すか許さないかが注目どころ。
日経平均225もついに1万8千円を割りガタガタガタと落ちこみ中。
欧州の株式市場も全般的に冴えない。
世界中の株式市場からすーっと潮が引くようにお金が消えていく。そんな印象を受ける。
勝ち続けることこそが至上命題のハゲタカファンド陣は、いったいどこへ向かっているのだろう。。
為替相場もこれまた値動きが激しいようで、中国元の通貨切り上げ、日本円円高反転のタイミングが懸念される一方で続落していくドル、ユーロは史上最高値を更新した後にじわじわと安値に転向。
緊張状態で一時的に保たれていたバランスが、ついに瓦解するタイミングを固唾をひそめて見守っている、そんな感じがする。
そういえば、今年はアジア経済危機から10年の節目でした。
外資導入による対外開放政策に基づく工業化発展を続け「東アジアの優等生」とまで呼ばれたタイは、経常赤字の膨張、バブル崩壊、不良債権増大、ヘッジファンドの空売りの増加、通貨切り下げ圧力の高まりという流れを受けて、ついに1997年7月に変動相場制への移行を決定-直後、通貨価値が大暴落。海外に逃げ急ぐ資本をつなぎとめるために国庫に保有されていたドルを次々にマーケットに放出、タイの通貨バーツを買い支えるも焼け石に水。あっという間に国内のドルは底をつき、個人保有のドルの放出を呼びかけるまでに至るも、わずか1週間で通貨価値は半減。
タイで発生したこの金融恐慌は近隣のマレーシア、インドネシアやフィリピン、さらに韓国にも飛び火し、果てはロシア通貨危機、ブラジル通貨危機の発端ともなった、そうな。
学生時代にアジア諸国の開発経済を専攻していた自分にとって、このアジア通貨危機は目からウロコのできごとでした。あぁ、ファンダメンタルズ! そんな基本的なファクターを見逃すなんて。
思えば、自分が机上であれこれと理想を語っていた時期は、実に平和で夢のあるのほほんとした時代に過ぎなかったのですね。
国際金融のイベントといえば(唐突だけど)、1985年9月22日のプラザ合意も自分の中では大きな位置を占めています。
プラザ合意とは、アメリカのプラザホテルにて発表された、対米貿易不均衡の是正を目的としてG5による為替レートの協調介入の合意。
当時、自分は父親の仕事の関係で東南アジアのとある国におりました。
「(学校の)ベンチにコブラが出たので気をつけましょう」と校内アナウンスがあったり、家の前でスクールバスを待っていたらゾウが通り過ぎたり(マイカー?)、庭のココナツの木の下では遊んではいけないと注意されたり(落下してきたココナツの実に当たると危険だから)、滞在中に1回小規模な軍事クーデーターあった程度で、至って平凡で幸せな日々でした。
さて、プラザ合意直後から急速に円が高騰。
一日遅れで届く衛星版の日本語新聞で、円の価値が日々刻々と上昇するのを眺めていました。1ドル=235円から一気に200円台を切り、150円になっても下げ止まる気配は見られず。
輸出産業が多数を占める現地邦人社会なので、円相場の行方は決して他人事ではなく。
いずれ120円台まで落ち込むというささやきの中、プラザ合意から半年が経ち、日本経済は輸出から内需拡大にシフトしはじめ、父親の会社も海外事業所を縮小。わたしたち一家は日本に帰国することに。
以来、歴史や経済の教科書で「プラザ合意」という単語を目にするたびに、あぁコレがなかったら今頃自分はどこにいたのだろうと考えたり。。
さほどドラマチックでもドラスチックではなくても、神の見えざる手の業によって世界情勢は日々刻々と変化し、一庶民は世の潮流に翻弄されてしまいます。
変わっていくことが決して悪いことだとは思いませんが、せめてソフトランディングだと良いなぁと思うわけです。
色々と気になることをメモしたり、グダグダ書いてみたり。山の記録はなるべく参考になりそうなことを…と思いながらも思いついたままに垂れ流し。。
Powered by "Samurai Factory"